2015年11月04日 老人ホームであろううと しかし、自分が自立していくことばかり考えていると、地方の農業をはじめとする産業は、どんどん衰退していく。辛い仕事は、親も子供に跡を継がせるのをためらって、跡取りが育たない。限界集落も後をたたない。ひとりひとりの想いが、多くなってくると、大きな流れとなり、うねりとなる。が、自分ひとりでは、流れには抗えない。自分サイド一方の想いに走るばかりが、必ずしもよいとは限らない。自己チューとの葛藤は、そういう社会問題を内包している。が、母の考えは、まさしく、それ。子供は親が自立できなくなったら、親の面倒を見るべき。わたしも、母の年齢になって何も自分でできなくなると、すべてを人任せにして、自宅に居たままで、遠方に散っている子ども達に囲まれ、日々、世話をしてほしい???と、そう思うのだろうか。母が、わたしの世話を人の手を借りてしたように、わたしも、他の人の手を借りてすることに、なんの問題があろうか。住み慣れた自宅で、遠くに住んでいる娘たちと毎日顔を合わせ、お気に入りの環境のなか、家族に溢れる温かい愛を注がれ、身近にぬくもりを感じ、枯れるようにこの世を去っていくのが理想だろうけれど、いまどき、そんな理想は、叶えられない。(世の中には、親の理想を叶えてあげる、やさしい娘さんや、息子さんもおられるようだが)もし、わたしが、叶えてあげた數學補習老師としても、毎日、実家に通うか、住み込んで世話をするなど、わたしの人生を踏んで叶えることになる。わたしの人生の後半を母ひとりに捧げ出す気持ちはない。わたしには、わたしの人生がある。母以外にも手助けすべき他の家族、メンバーが、たくさん控えている。母だって、よくよく考えると88歳になったお姑さん(父の母)を引き取ってから、大勢のスタッフで世話していたではないか。楽しい老後は、自立している間だけ。自立しなくなったら、それはもう、自宅であろうと、精神的には自分で解決するしかない。哀しくて残酷だが、覚悟を決めるべきだ。できる範囲なら頑張るが、壊れるほどは頑張らない。人のために、自分が壊れるのは、たとえ親子であろうが、そこまで負いきれない。この、わたしの後姿は、こどもたちは、しっかり見ている。いずれ、自分も同じ道を歩むことだろう。さっさと、いち早く捨てられるんだろうなあ。 コメント(0) Tweet